忘れたいものとして、嫌な記憶より愛おしい記憶が増えているのは、困りはてる。今朝はそんな夢を浴びるほど、浸かるほどに見ました。起きて動いてるとき、私はそれらから自由になれているのに、油断した眠りにはたっぷりと入り込んでこれるみたいだ。イヤナヤローたちだ。
そんなわけで、眠りすぎた土曜日の朝、夢と現とが対になっている意味をそれとなく知る。いま現世界で完全なる順調を目指しても、かなわない時間なわけだ。


父にお粥を作って、私も母も一緒に食べる。この何ヶ月かで、期せずしてお粥のエキスパートになっていた。
梅がゆ、卵がゆ、中華がゆ、芋がゆ、カレーがゆ、なんでもいけまっせ。


昼からメガネを作りに。
なにやら割高のレンズにしてしまった。鼈甲ぽいセルロイドフレームを買うつもりで行ったのに、気がついたらまたアルミフレームを買っていた。そしてまた、えんじ色から抜け出せない。

帰りに本屋さん。くまさんのように文庫をもそもそ探す父↓

<ほしいな本メモ>
沢木耕太郎編 『右か、左か』


そして、希望のそら。

夜になっても朝みた夢が鮮やか。にぶい痛み、あまい痛み、とやらは言葉がきれいすぎて遠い。