それぞれの時間がもたらしたひとつの結果です

本当は今も、五里とはいわない長い霧の中を、うろうろと頼りなくせわしなく徘徊している。何か見えませんか、誰か居ませんか、と。ときどき疑わしいほどに晴れる。でも次に覆われたとき、ますます濃くもなっている。

自分の過ごしてる毎日は、付け焼き刃の連続だと感じることがある。
いえいえ、なるべくして流れている確かな手触りの日々だと思うことがある。


お世話になっているかたの紹介で、昼から人とあう。初めて会う人と話をするのは苦手だけど、仕事をするようになってから、前よりはすこし慣れた。かに通でカニをいただく。釜めしが美味しかった。らくらく平らげた自分にホッとしながら。

夕方、映画『OCEANS』を見に綾川へでかけた。眼鏡を忘れたため、最前列ど真ん中を陣取ったら、スクリーンの中の波に揺さぶられまくった。いま流行りの3D映画に負けないんじゃないかという三次元感覚で、ちょっと酔った。
全体を通して、最低限の言葉量のナレーションというわけではない。でも何か意図を持って、言葉による説明を削っている。映像で語られる。悲しいかな、海への人間の所業を語る段が、最も説明的で最もナレーション量が多かった。


私は、都合のよいものだけを愛していて、それだけでは飽きたらずに、都合のよいものだけを悲しんでいる、と。自分の範囲を越えない悲しみを悲しんでいる。それをつきつけられたみたいで、困ってしまっている。

とにかく、前半に素敵な映像のこれでもか!という畳み掛けがくる。ザトウクジラの唄がよかった。コブダイの顔がよかった。カニの行進が、セイウチの抱っこが、イルカの筋肉が、ウミドリの滑降が、シャコの巣掃除が。母と見に行きたいなと思った。


一日のおわりに、それでもやはり毎日笑いたいと思える。